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二七幕
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二七山不動院への興隆


昭和24年から二七不動堂に品川寺より堂守として派遣された福島秀宝大僧正は現神崎寺観音堂として残る小さな不動堂において護摩を焚き、人の相談を聞いた。

二七不動の興隆は一つの相談がきっかけとなっている。それは九段に存在した花柳界の人からの人探しの相談であった。秀宝大僧正は『どこの駅に何時に行きなさい』と指示をしたところ、その人は當にその場所その時間に現れたのだそうだ。その噂は花柳界に流れ、多くの相談や御祈願が花柳界から寄せられ、秀宝大僧正は花柳界の有名人となった。秀宝大僧正が町を歩くと、縁起を担いで芸妓衆が大僧正の手を引き、店で一休みするように勧めるほどであった。

観法(おうかがい)と言われる相談に多くの人が訪れるうちに、二七不動に信仰を寄せる人はどんどん増え、昭和40年に立派な御堂を多くの信徒の寄進によって建立し、従来の不動堂は神崎寺に移築し観音堂とした。

この頃になると、後継者となる福島善哉大僧正が京都醍醐寺伝法学院の修行を終えて宗教活動に加わり、ますますの興隆となっていく。時は折しも日本全体が好景気に沸いている、高度経済成長からバブル経済となっていくときである。

秀宝大僧正から宗教活動を受け継いだ善哉大僧正は、二七不動堂における宗教活動を二七山不動院として寺院としての活動にまで成長させ、普門会という信徒会を組織して人々の信仰を不動明王に伝えた。また、秀宝僧正から続く東郷平八郎御屋敷跡である東郷記念公園における火渡り修行をますます興隆させ、関東修験三宝宗務所という修験行者集団を率いて、二七不動の火渡り修行を全国に伝授した。

 

二七山不動院の焼失


大きな興隆を果たした善哉大僧正が平成十五年九月に遷化すると、二七山不動院には僧侶がいなくなり、遺族が住んでいたが平成17年3月9日火災が発生し二七山不動院は焼失し、石仏本尊および御前立本尊は千葉県神崎寺において守られることとなる。

 

二七山不動院の復興                                        


おおよそ10年のあいだ神崎寺において二七不動尊はお休みして、その御堂が用意される日を待っていた。

その頃、神崎寺に入られた真勝僧正は秀宝大僧正そして善哉大僧正が行ってきたように山中の修行に験力を求め、護摩を焚き、大寒の冬に水行を勤め、修行を重ねる中に平成20年4月29日から二七山不動院復興の祈願をたてて護摩祈祷を始める。

祈願を続けること6年が過ぎるころ、二七山不動院の復興を待つ多くの信徒の気持ちに二七不動尊の霊験が現れ、不思議な縁を集め、縁をつなぎ、篤信の信徒の協力により御堂の用意が整い、平成26年11月23日に二七山不動院が墨田区太平町に復興された。 
復興された二七山不動院の落慶法要には関東修験三宝宗務所の行者を始めとして有縁の僧侶により護摩法要が行われ、10年の時を経て二七不動尊の宝前において護摩の浄炎があがった。

復興された二七山不動院においては、かつての興隆と同じように、
伝統の観法(おうかがい)を行い、護摩を焚き、人の相談を聞く。
この二七不動の伝統は変わらず小さな御堂において守られている。

毎月1日と27日をご縁日として護摩が焚かれる。

人々には月参りをしてお不動様の御利益をいただくように勧めている。

また、現代の多様な悩みや相談にこたえるように、住職による相談や観法だけでなく、寺務長の女性的感性による女性への指導も行うようになっている。

まだまだ、復興途中のお寺であるが、“本物”があるお寺である。お寺が本来行うべきである“駆け込み寺”の役割“癒し”の役割、“グリーフケア”の役割など多くの役割に努めるべく現在でも歴史を作り続けている。

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平成17年に焼失した二七山不動院

 

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